きもち の きろく

彼らの眩しい煌めきを記録しておきたい

子どもと大人と生と死と

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楽しみにしていたHOMESTAY。最近のとなりのチカラにどハマりで長尾くんの演技が楽しみでしたし、予告で見たストーリーも面白そうで期待してました。どきどきワクワクしながらタップした2022年2月11日0:00。たくさん考えた1時間52分でした。いま感じた気持ちを残しておきたいと思ったのですが、ツイートするには量が多くなりそうなので残しておきたい個人的感想のみを並べて簡単なはてブにします。

【下記、今回の言い訳】

まとめてみて改めて気づきましたが、私自身いい歳した大人の割には比較的子ども的な感覚でも物語を観てたと思います。(おい、成人女性)  子どもは子ども、大人は大人ではなく、母親だって父親だって人は平等にみんな人やん、と言われると まあせやんな…… と思います。が、今回はあくまで "真、シロはまだ経験の浅い子ども"、"周りの大人たちは何十年と広い社会で生きて経験をしている大人" として捉えた上での感想を書きました。

という言い訳をしてからはじめます。

 

【もくじ】

1. 環境と感覚

●悲観的なわけじゃない現実的なだけだ

●生物学的生命と社会的生命

●同調と個性と学校社会

2.「死にたい」は、生きたいの叫びなんだ。

●死ぬ瞬間と誕生日

●"死"という形の生

3. 愛とエゴ

4. 大人的感覚と子ども的感覚

●第三者と当事者の物語の見方

●この物語と長尾くん

5. さいごに

●この物語から受け取ったもの

 

 

1.環境と感覚

●悲観的なわけじゃない現実的なだけだ

「僕ははじめから誰の目にも写っていなかったんだ 母親の目にさえも」(真が観た車内の母の姿の記憶と、いまシロが目の前で見ている他人の家族といる母の姿がリンクした時に発せられるシロの心情のナレーション)

「みんなが真を殺した みつるに母親、父親、美月 真に気づいてやれなかった全員がまことを自殺に追い込んだんだ」(母の姿を見たあと、雨の中の夜の橋でクイズに答えるセリフ)

「あんたはいいよ他人の家族に逃げれたんだから 真に逃げ場なんてなかった 死ぬしかなかったんだよ 絵なんか飾らなくていい ちゃんと向き合ってやれよ 真はもう死んだんだ」(帰宅しないシロを探しに来た母を突き飛ばして言うセリフ)

上記のセリフたちは第三者ではない当事者であるシロ、真の苦しい心からの叫びでした。

僕は悲観的なわけじゃない 現実的なだけだ 僕がいなくなっても その場所を埋める必要はない 今だってみんなにとっては初めから空白なんだから 笑ったり泣いたり怒ったり喜んだりこうしてる間にもみんなの日常はまわっている 矛盾しているかもしれない けれどこの瞬間に僕は思う 僕が死ぬことで誰かが僕に気づいてくれればいい」(真が書いた遺書の文章)

真は 僕は悲観的なわけじゃない 現実的なだけだ と表現しています。これがまた真の苦しみ全てを表現していますよね。真としては自分は悲観的に、感情的になっているわけではない、現実的に自分の置かれている "事実" を真なりに見つめた結果の選択だということです。

 

●生物学的生命と社会的生命

生物学的生命と社会的生命、これは分かりやすくまとめる為に先程思いついた造語です。(造語かい)(息の根が止まり、生物学的に死を迎えるという意味での生物学的生命、息はしているが、社会的に立場、存在意義を喪失して社会的に死を迎えると当事者が認識するという意味での社会的生命という2種の生命があるとします。とりあえず。造語です。)

自分という存在は自分で作るものだと思います。人間というものは人的、物的環境により消えたり現れたりするのもではなく、生物学的生命が続く限りそこに存在し続けます。しかし、自分という存在をはかる物差しは本人の心情の揺れなどにより、時には絶対的なものではなく相対的なものであったり、取り巻く環境により自分の存在というものが意図せず変化させられるように感じたりしてしまいます。本来は父親が海外出張でなかなか家庭に戻らなくても、母親が他人の家族と仲良しごっこをしていても、好きな女の子に好きな女の子がいても、真は真です。事実はそうであり、当たり前のことではありますが人には感情があり、更に人は一人では生きられず常に周りの人との関わりが生きることにおいて大きいため、そうはいきません。自分の想像や期待とは違うことが起きたときに困惑するのも分かります。

真にとって母親と父親がいて自分という存在が産まれ、兄や友だちがいて自分という存在があります。そうだと思っていたはずなのに想像や期待と現実は違っていて、それに気づいてからは自分の存在意義や居場所を探したと思います。社会的生命の危機を感じたはずです。真なりに周りと自分の関係性を現実的に見て、急に自分という存在が宙ぶらりんになったような気持ちを感じたんだと思います。

 

同調と個性と学校社会

世の中は少しずつ多様性というものを重視し始め、個人の人権を尊重する方向に傾いています。しかし、まだまだ学校社会のシステムは昔ながらの軍隊式の面が多いです。(一人で数十人の子どもたちをまとめて安全に過ごすためにはこの方式が簡単なんだと思います。システムを変えたくても、そこまでには国としての制度変更なども必要なため簡単な話ではないはずです。この辺りの話を深堀すると長くなるので割愛します) 学校(幼稚園、保育園、人によって違いますが…)は子どもたちがはじめて出る社会です。社会で生きる中では様々な壁にぶつかります。当たり前にみんなそれぞれ生きてきた背景が違うので思想が1から100までマッチすることは限りなくゼロに近いです。人との関わりで時には同調を求められることがあったり、角を立てないように自ら同調を選択することもあります。周りとの関係を気にして同調を求める世の中とそれと同時に個性も求められる矛盾。今回の真と美月関係、美月と美月の好きな女の子の関係等、随所に本音と同調と個性の問題が出てきました。

上記で学校は子どもたちが初めて出る社会と表現しました。学校は社会の縮図であり、また環境が狭いため逃げ場が少なく、思考も閉鎖的になったり極端になったりと偏りがちになるのは当たり前です。また、真もこの世に生まれてたった十数年であり、経験も浅いです。そんな真と大人の感覚が違うのも当たり前だと思います。真が生きる社会は大人の生きる社会より狭く、真の感覚や思考は大人の感覚や思考より一面的なのも当たり前です。よって、大人から見た"現実的、悲観的"と本人の"現実的、悲観的"が食い違うのも当たり前ですよね。それを理解できている大人が真の近くにいれば、さらに「理解しているよ、分かってるんだよ」ということが真にも分かるように表現できる大人が近くにいれば、真の人生はまた別物だったろうと思います。

 

2.「死にたい」は、生きたいの叫びなんだ。

●死ぬ瞬間と誕生日

「死にたい」は、生きたいの叫びなんだ。

これはこの物語のキャッチコピーになっており、長尾くんも日刊で「良い言葉ですね」と話していました。このキャッチコピーはまさに物語全体を表したものだと思いますが、あるシーンでよりこのキャッチコピーを強く思い出しました。

「俺は俺を殺した 俺が真だ」に繋がる砂時計が落ちきる直前のシーン。死を目前とした瞬間にケーキのろうそくを吹き消すシーンが流れました。死ぬ目前なのに誕生日という年齢を重ねる瞬間が思い出される描写が惨かったです。あのシーンはシンプルに死に際に見えた楽しい思い出の走馬灯だろうし、シロが自分自身が真だと思い出したから蘇った記憶でもあると思います。ただ、そのシーンの冒頭がストーリーに出てきたキャンプの様子などではなく、ある年の誕生日の描写でした。死と生は真逆のはずなのに、あの死の瞬間に生を感じさせるような歳を重ねるという誕生日の瞬間の記憶が蘇ったシロ。シロは死を感じたあの瞬間、一番強く生を感じたのだろうと思います。

 

●"死"という形の生

「僕が死ぬことで誰かが僕に気づいてくれればいい」と遺書に書いて死んだ真。ずっとずっと "本当の意味で" この世を生き続けたかったはずの真。一番強く生に執着していたはずです。だからこそ死ぬことで誰かに気づいてもらおうとし、生と真逆とも思える死という形で生を取ってしまったんだと思います。死ぬという形で誰かの中で生き続けることを選んだ真は死の瞬間、何を見たのでしょうか。

 

3. 愛とエゴ

【愛】とは

①親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。万葉集5「―は子に過ぎたりといふこと無し」 ②男女間の、相手を慕う情。恋。 ③かわいがること。大切にすること。御伽草子、七草草子「己より幼きをばいとほしみ、―をなし」 ④このむこと。めでること。醒睡笑「慈照院殿、―に思し召さるる壺あり」 ⑤愛敬あいきょう。愛想あいそ。好色二代男「まねけばうなづく、笑へば―をなし」 ⑥〔仏〕愛欲。愛着あいじゃく。渇愛。強い欲望。十二因縁では第8支に位置づけられ、迷いの根源として否定的にみられる。今昔物語集2「その形、端正なるを見て、忽ちに―の心をおこして妻めとせんと思ひて」 ⑦キリスト教で、神が、自らを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと。→アガペー1。 ⑧愛蘭アイルランドの略。

(広辞苑より)

【エゴイスティック】とは

利己的。利己主義的。自分本位。

(広辞苑より)

「今だからわかることもあるだろう お前はまだわかんねえのか 黙ったまんまで察してくれなんて甘ったれんな 美大に行きたいんだったらお前もちゃんと父さんと向き合えよ 言葉にしなきゃ何も伝わらねえんだ」

「それはあんただって」

「そうだよ、だから今こうやって話している 地味で暗くて自信も社交性もない 毎日俺の後ばっか付け回して転んでは泣いて目が離せない必要以上に世話の焼ける弟がある日突然居なくなってそのままいられるとおもうか? 目の前で死んでいくのを見て平気だと思うか? 誰の目にもうつってない? お前の目には何が見えてたんだ ふざけんな」(シロと母親が事故に合い病院で目が覚めた後、母親の様態を見に行ったシロと兄のやり取りのセリフ)

兄なりの不器用な表現ではありますが、誰かはあなたを見ていて誰かには愛されていることに気づいてというメッセージだと私は思いました。これはシロが真の死の理由に気づく大事なセリフの一つだったと思います。しかし、思いやりや愛というものは形としては見えづらく、時にはエゴだと感じられるものもあると思います。私は伝える側が思いやりや愛だと思っていてもそれが受け取る側がエゴだと認識した時点で残念ながらそれはエゴになってしまうと解釈しています。シロ、真の主観で描かれているからとはいえ、正直あの環境下で周りの気持ちを真っ直ぐありのまま受け入れられるでしょうか…?真やシロの考えがああなるのも無理ないように思います。『●同調と個性と学校社会』でも書いたように、子どもの環境や感覚を鑑みて大人が寄り添い、受け取る側に配慮した表現の仕方を行う必要もあったのでは?と感じてしまいます。

 

4. 大人的感覚と子ども的感覚

●第三者と当事者の物語の見方

このストーリー、大人が観るか子どもが観るかで随分受け取り方が変わってくるような気がします。というのも、三者として観るか、当事者として観るかという違いです。私自身はそこも面白い点だなと思いながら観ていました。自分の中のわだかまりがある程度払拭できた後、大人になってこの物語を見れば、高校生のシロや真に感情移入しつつも第三者目線で観れると思います。

私の感覚としてはこの物語は大人が見て、それぞれ自分の人生を咀嚼できる、大人的感覚のものという風に感じました。(それが良いだとか悪いだとか、好きだとか嫌いだとか言う話ではなく) 悩みごと等の大小に限らず(そもそも第三者が大小付けれるものではないが)もし真のような当事者である子どもが観ると恐らく周りからの愛に気づいて、俺が俺を殺したというような表現は間接的であれ、なかなか衝撃的な気がします。あくまでこれは私の受け取り方であり、『●同調と個性と学校社会』で書いたように、それぞれ生きてきた背景が違うので思想が1から100までマッチすることは限りなくゼロに近いため、受け取り方は十人十色です。愛とエゴのように改めて自分から発信する表現と受け取る側の解釈の難しさを感じました。

 

●この物語と長尾くん

ここに来てやっと長尾くんの話をしますが、長尾くんハチャメチャに良かったですね、マジで。何度も映像の美しさと、長尾くんのセリフまわしや目線の動きの繊細さに心奪われました。2度ほど通してみて、それ以降は好きなシーンを巻き戻しながら堪能しました(笑)

シロとしてホームステイを始めて真の家族の顔色を伺いながら頷くシロも、デート服を探すのに生き生きするシロも、あきらに手当されながら「おこってる?おこってるじゃん」と言うシロも、美月先輩とのお出かけにドキドキしながらカフェで向かい合って話すシロも、浮ついた心で「紡ぎましょう紡ぎましょう〜!」言うシロも、沢山の人との関係に悩んで複雑な表情を見せる真とシロも………本当に全てが愛おしくて全てが美しかった。キャスティングして作り上げてくれた監督に感謝し、長尾担の皆様のことを羨ましくも思いました。(誰?) そして、この物語に出会わせてくれた長尾くんに心から感謝します。

この映画を撮っていたのは高校卒業後すぐで実際真やシロと年齢が近かったはずです。そんな長尾くんがこの物語をどのように見てどこに共感してどこに悩んで、どのように受け取ったのかがとても気になりました。

 

5. さいごに

●この物語から受け取ったもの

最後にわたしの素直な感想として、きっと当事者である子どもたちが、今リアルタイムであのシロの気づきまでにたどり着くことは正直なかなか難しいと思いました。難しいとは思いますがメッセージがセリフとして分かりやすく表現されている所もたくさんありますし、何かしらこれを観て「へ〜」って思って、「ま、そうか、人生所詮ホームステイか〜〜」と思えれば大きな気づきだと思います。大人になってからのこの物語との出会いも嬉しかったですが、更に贅沢を言うと私も高校生の時にこの物語に出会ってみたかったな〜。当時の私が観て「はあああ"〜〜ん!??!?」となったか、「そうか、そうか」となったか、真偽は分かりませんがどちらに転ぼうとも気づきには変わらないはず。この感覚ですら大人的感覚だなと思いますが、やっぱり今この物語を当事者として観れる子どもたちが少し羨ましくも思います。

大人である私が受け取ったメッセージは本当にたくさんで、素直に子どもの頃の私に見せたいと思いました。それすら大人になった自分から子どもの頃の自分へのエゴですが(笑) でも、この物語をそのように受け取れるようになってて、大人になったんやな〜と実感しました。(とっくに成人女性、ハイパ〜遅い)

前の自分も、今の自分も、明日の自分も、どんな自分も自分を創るための欠かせない自分なんですよね。自分だけはどんな自分も排除せず受け止めて生きていきたいです。どんな自分も自分で、全部の自分が重なり合って、全部の自分が本当の自分であること、忘れないでいます。自分を愛せて人を愛せる大人になれますように、なれていますように。

本当に素敵で大好きなセリフがたくさんでした。これからもずっとずっと忘れないでいたい。

 

「いいんですよ、それで 俺も本当の自分なんてわかんないです でも、赤だったり青だったり紫だったり、みんなそれぞれ持ってるのは一色じゃない ホッとしてる先輩も逃げ出したい先輩も、いろんな色が重なり合うから美月先輩なんだと思います 全部が本当の美月先輩なんです それに、死んだら死んだで結構めんどくさいですよ(笑)」(屋上のフェンスを越えようとする美月に話すシロのセリフ)