THE GREATEST SHOW-NEN
いろいろな劇団の方と毎公演素敵な舞台を作り上げるAぇ。どの公演も好きなんだけど、その中でも何故か今回の銀河鉄道の夜が心に突き刺さりました。理由はうまく説明できないけれど、この5週間取り憑かれたようにリビングのテレビでひたすらに繰り返し観た。何なら出勤前に身支度しながらリビングのテレビでかけてました。(家族大迷惑)
このうまく言えない気持ちをなんとか文章にでもして消化したいという気持ちから、思ったことをここに残すことにしました。
解釈は自由だ!!!と自分で予防線を張ってから始めますね(笑)
【もくじ】
1. ジョバンニの"ネガティブ"は本当に性格?
・歌詞と共に見るジョバンニの心
2. なぜジョバンニは銀河鉄道に乗れた?
・星めぐりの歌 と ケンタウルスの露
・"肉体の死" と "心の死"
3. "それぞれの"本当の幸せと自己犠牲の関係
・カンパネルラの生命
・青年の背負った二つの命と "幸せ"
・ジョバンニの埋まらない孤独
・サソリの自己犠牲
・ジョバンニの本音と苦しみ
・カンパネルラと自己犠牲
4. ジョバンニとカンパネルラの幸せの終点
・僕達は素粒子でできている
・私が思うジョバンニとカンパネルラの関係
5. ジョバンニとカンパネルラの "共に生きる"
・先生の台詞の違和感と自己犠牲
・生きているジョバンニと死んでしまったカンパネルラの "共に生きる" ということ
・星めぐりの歌の変化
6. さいごに
1. ジョバンニの"ネガティブ"は本当に性格?
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歌詞と共に見るジョバンニの心
いつまで続くのか なんのために生きるのか
誰にもわからない僕の気持ち
文字を並べては 意味を探さないで
虚しさが募る 夢は遠ざかる
何度も夢を見て諦めて繰り返し
誰にも届かない僕の気持ち
文字を探しては力なく笑い
躓いたままで今を抜け出せず
いつかはいつかは いつかはいつかは繋がって
この銀貨のような光をください
この銀貨のような光に触れたい
いつかいつか僕もきっと
(耳コピのため、間違っていたら申し訳ないです。)
これは活版所の店主(佐野晶哉)が歌う曲の歌詞です。あの透明度の高い晶哉の声もマッチして切なくなりました。そして、何とも苦しく、やるせない歌詞。
これがジョバンニ(正門良規)の心の叫びだと思います。
活版所の店主には「バイト君はいつもああして妄想しながらバイトするのさ」と言われています。苦しい生活の中、ジョバンニなりに希望を探して "いつかは" という思いでなんとか生き繋いでるんですよね。
店主に友だちはいない、根暗でネガティブだから誰も近づかないと言われ、従業員からも「家は貧乏だっていうし悲惨だな」といわれます。学校ではお父さんのことで揶揄われていました。
ジョバンニの元からの性格だけでなく色々な人からの悪意のあるからかいや、悪意の少ない同情、夢を見てもすぐに現実が突きつけられて絶望せざるを得ない状況、その全てがジョバンニを深い孤独に追い詰め、ジョバンニを根暗でネガティブにしていっているように感じました。家庭環境などから卑屈になってしまう子どもの姿がとてもリアルで苦しかったです。ぱっと見た感じ何となく達観していて大人っぽいようにも思うが、そうならざるを得ない周りの環境と、それについていけない子どもの心のアンバランスさ。"大人にならざるを得ないジョバンニの心"と、"子どもらしいジョバンニの心"とでの揺らぎが、あの卑屈で大人っぽいのにどこか子どもっぽさも持ち合わせるアンバランスなジョバンニを作り上げているのだと感じました。
ジョバンニは人からの言葉、夢を見るたび突きつけられる現実、自分の心の揺らぎから藻掻き苦しみ、深い孤独の闇に溺れていくんですよね。
2. なぜジョバンニは銀河鉄道に乗れた?
僕たちは まだ見ぬ場所へ
呼ばれてる 呼ばれてる
散りばめた 銀河の向こう
呼んでいる 呼んでいる
この暗闇に吸い込まれそう
汽車が夜風に吹いてくる
もう足元は地球を離れて
星をぬうように
走り出した歌 君と僕
誰も見ていない世界があるよ
風をぬうように
走り出した歌 僕と君
君と見ていたい世界があるよ
(耳コピのため、間違っていたら申し訳ないです。似た音で別の言葉でも成り立ちそうな歌詞が多くて…。そして馬鹿にはリチャの英語リスニングできませんでしたごめんなさい。聞き取る努力もしてないですごめんなさい。)
これはジョバンニとカンパネルラ(福本大晴)が作ったとされる『星めぐりの歌』
迷いに迷って見に行った星のステージでこの曲を歌うクラスメイトとカンパネルラを見て「僕も歌いたかったよ。歌いたかったけど…ちくしょう!僕は汽車だ しゅっしゅっぽっぽっ 遠く どこまでも」とその場を離れて、天気輪の丘へ向かいました。
天気輪とは?となったので天気輪についてネットで調べてみました。調べたところ東北地方の墓地や村境に見られ、農耕に恵みをもたらす天候を祈り、死者を弔う目的で設置された仏教的な宗教設備の一種とのこと。形態的には、石や木製の柱の手の届く部分をくりぬいて、回転可能な輪を取り付けた形状をしており、祈祷者はそれを回して祈り、願をかけるというものらしい。ざっくり言うとジョバンニの言う天気輪の丘は、恐らく死者を弔う仏教的な宗教設備がある丘のことを指していたようです。
ジョバンニは天気輪の丘で楽しそうにしていたカンパネルラの姿を思い出しながら座り込みます。空を見上げたジョバンニは一度「うわあ〜!」と言ったものの、瞳が変わり次のセリフを放ちます。
「この白いのは全部星だっていうのに 僕はひとりだ」
このセリフの後、ずぶ濡れで穴という穴から血が出ているカンパネルラが出てきます。ジョバンニがどうしたのかと問うとカンパネルラはこう答えます。
「ケンタウルスが降らせた露に濡れたんだ ハルレヤ ハルレヤ」
星のお祭りの冒頭シーン、ザネリやカンパネルラたちが声を揃えて言う「ケンタウルス、露を降らせ」のセリフが思い返されます。星のおまつりは「死んだ人が夜空にかえれるように星のように灯籠を灯して川へ流すんだ」とカンパネルラが話していました。あんなに明るく楽しく笑いあって言っていた「ケンタウルス、露を降らせ」がこんな形で登場するなんて、また残酷ですよね。星に見立てた灯籠を川に流して天の川を作り、その天の川に溺れて死んでしまうのですから。
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"肉体の死" と "心の死"
たくさんお話してしまいましたが、ここで見出しのテーマに戻ります。銀河鉄道は恐らく死者が夜空に行くために乗ることができる鉄道ではないのかと思ったのですが、なぜ死んでいないジョバンニが乗れたのでしょう?銀河鉄道は基本死者のみ乗れるものと仮定して考えてみました。
カンパネルラは灯籠を流した川に落ちて溺死し、肉体が死んでしまうので銀河鉄道に乗ることができたのだと推測します。対してジョバンニは肉体は死んでないものの、心が死んできていたのでは?と思いました。先程話したようにジョバンニは人からの言葉、夢を見るたび突きつけられる現実、自分の心の揺らぎから藻掻き苦しみ、深い孤独の闇に溺れておそらく心が溺死しかけていました。そう考えると "肉体が溺死したカンパネルラ" と "心が溺死しかけていたジョバンニ" が死者を夜空に連れる銀河鉄道に乗ることができたのではないかと思います。
ジョバンニはカンパネルラが楽しそうにしていたことを天気輪の丘で思い出していたし、カンパネルラはジョバンニがいないと駄目だと気づいたと話していました。実際に「お父さん、お母さん、ジョバンニーー!!」と叫びながら川に飛び込んでいます。互いが互いの事を同じタイミングで想っていたというのも、二人を引き合わせた鍵だったのでは?と感じてしまいました。
3. "それぞれの"本当の幸せと自己犠牲の関係
カンパネルラ『みんなはね、随分走ったけど遅れてしまったよ。ザネリも走ったけど間に合わなかった。』
ジョバンニ「どこかで待っていようか?」
『ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎えに来たんだ。』(首元を抑えて苦しむ)
「カ、カンパネルラどうしたの!?」
『あ、しまった!僕水筒を忘れてきちゃった。スケッチブックも。白鳥を描きたかったのに。』
「誰かに持ってきてもらおうか?」
『お母さん…。お母さんは僕を許してくれるだろうか?』
「そうだね、僕たち内緒で旅に出ちゃったから。」
『僕、お母さんが幸せになるならどんなことだってする。でも、一体どんなことがお母さんの1番の幸せなんだろう。』
「カンパネルラ、君のお母さんは何も悲しむようなことないと思うよ?」
『僕分からないんだ。でも、誰だって本当にいいことをしたら1番幸せなはずなんだ。だから、お母さんは僕を許してくれると思う。』
「どうしたの?」
『人間はなぜ死んでしまうんだろう?死んでしまったらどうなるんだろう。僕に生きていた意味はあるんだろうか。それに気づけなかった人間は地獄へ行くのかな!?』
「カンパネルラ!」
ここから二人の "本当の幸せ" を探す旅が始まります。ここから登場するシスター(小島健)が面白かったですね。面白おかしく尚且つ熱く愛を語る辺りも、シスターのビジュアルも全てが小島にぴったりすぎて…。セリフもキャラクターも面白いのですが、案外大事なことを言ってましたよね。
シスター「いいえ、地獄に行くのではありません。死んだ人はみな天国、ひらパーへ行くのです。ビリケンを信じる人もビリケンを信じないは人もひらパーのことはみんな大好きです。人間は消えてなくなるのではありません。」
死んだ人はみな天国へ行く。ビリケンを信じる人も信じない人も( =どんな思想を持っている人でも )みな天国へ行ける。このセリフが最終のカンパネルラの長台詞にかかっているのかなと思いました。このシスターの台詞に対して「よく分かりましたありがとう」と返答するカンパネルラと「僕には道案内をしているように聞こえます」と返答したジョバンニの対比も面白かったです。これを理解しているカンパネルラだからこそ、最後のシーンであの長台詞の言葉が出てくるんですよね。
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カンパネルラの生命
「思い出したくない 思い出したくない 苦しいよ!
川だ、僕たちは川へ灯籠を流しに行ったんだ…。」
ここからのTIMEZONEも圧巻でした。カンパネルラの強い意志と命が燃えるような表現が歌詞や曲調とマッチしてました。首元を抑える振り付けも美しく悲しくて辛かったです。カンパネルラの生命の強さと儚さが伝わってきた1曲でした。
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青年の背負った二つの命と "幸せ"
途中で遭難した三人に出会います。そこのシーンでの青年(草間リチャード敬太)の台詞でこのようなものがありました。「何が幸せかはわかりません。それがどんなに辛くても正しい道を進むためなら。」この青年は少女(小島健)と少年(前川ゆうさん)を守ることが自分の義務だと思いながらも、船に乗れない他の小さな子どもの様子を見て押し退けてまで二人を乗せることは選択できなかったようでした。三人でそのまま神様のところへ行くことの方が "幸せ" と感じたのでしょう。究極の自己犠牲ですよね。幼い少女と少年の人生も抱えての思い決断だったはず。とても辛く苦しい選択ですが、自分の中の倫理や幸せを天秤にかけた結果、彼なりの "幸せ" だったんだろうと思います。それぞれの幸せを考えるというところでとっても大事な役だったと思いますが、さすが力強い言葉と眼差しで演じるリチャでした。
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ジョバンニの埋まらない孤独
ジョバンニ「どうして僕はこんなに悲しんだろう」
少年『どうしたの?』
「どこまでもどこまでも僕と一緒にいってくれる人はいないんだろうか。カンパネルラだってあんなに女の子と楽しそうにして。」
『お兄さん、心が忙しいんだね。』
「僕はもっと心の大きなきれいな人間になりたいのに、辛いなあ。」
周りとの関係や愛着からか、やはり卑屈なジョバンニ。カンパネルラへの過度な依存で心を埋めているような印象です。きっと人との関係や愛着から、このカンパネルラとの関係で心のバランスを保っているのかなと感じました。ジョバンニなりの幸せを探しながら藻掻く過程だと捉えています。
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サソリの自己犠牲
昔パルドラという野原に1匹のサソリがいたんだ。
ある日サソリはイタチに食われそうになった。
サソリは一生懸命逃げた。
でも逃げている最中に井戸に落ちてしまった。
生きたい、生きたい、でもどうしても上がれない。
溺れはじめたサソリはお祈りをしたんだ。
今度生まれてくるときはこんなに虚しく命を捨てず、皆の幸せのために私の体をお使いください。
サソリはそう願うといつしかサソリの体は赤い炎に包まれ、夜の闇を照らしたそうだ。
これもざっくりいうと自己犠牲のお話ですよね。井戸に落ちて虚しく死ぬくらいなら、イタチにでも命をくれてやればまた一日イタチも生き延びることができた。今度生まれてくるときには皆の幸せのために私の体をお使いくださいと祈った。サソリの体は赤い炎に包まれ、夜の闇を照らした照らしたそうだというのはカンパネルラが言うようにサソリ座のアンタレスのことを言っています。アンタレスとはサソリ座の心臓部分に当たる赤く輝く1等星のことだそうです。
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ジョバンニの本音と苦しみ
ジョバンニ「どんな大きな闇の中だってさ、きっとみんな本当の幸せを探しに行くんだろうね。僕たちはどこまでも一緒に行こうね、カンパネルラ。」
カンパネルラ『きっといくよ。でも本当の幸せってなんだろう?』
「わからない。それが分かればどんな峠の上り下りだって、幸せに続く一足ずつだって分かるのに。」
『あ!南十字星がみえてきた!』
「なんてきれいなんだろう…。」
『きっとあそこが本当の天国なんだよ!僕のお母さんがいるよ!』
ジョバンニから発される、「それが分かればどんな峠の上り下りだって、幸せに続く一足ずつだって分かるのに」という台詞、とても苦しい台詞ですよね。ジョバンニは割とさらっと言うのですが、これが今のジョバンニの苦しみを表現している気がします。自分の今の苦悩の先、いつか本当の幸せをみつけられるかどうか分からない中、不確かな峠の上り下りを進み続ける怖さと苦しみが感じられました。
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カンパネルラと自己犠牲
ここにきて話は戻りますが、この見出しの冒頭のジョバンニとカンパネルラの会話です。
『お母さん…。お母さんは僕を許してくれるだろうか?』
「そうだね、僕たち内緒で旅に出ちゃったから。」
『僕、お母さんが幸せになるならどんなことだってする。でも、一体どんなことがお母さんの1番の幸せなんだろう。』
「カンパネルラ、君のお母さんは何も悲しむようなことないと思うよ?」
『僕分からないんだ。でも、誰だって本当にいいことをしたら1番幸せなはずなんだ。だから、お母さんは僕を許してくれると思う。』
「どうしたの?」
『人間はなぜ死んでしまうんだろう?死んでしまったらどうなるんだろう。僕に生きていた意味はあるんだろうか。それに気づけなかった人間は地獄へ行くのかな!?』
「カンパネルラ!」
この噛み合ってるような噛み合ってないような、全く噛み合っていない会話。お母さんが許してくれるかどうかという話は、カンパネルラは自分の命を危険に晒して川に飛び込むという、自己犠牲の選択をした事を指しているのでは?と推測します。
お母さんは自分の命を捨てる結果になってしまったことを許してくれるだろうか?お母さんはこれをどう思うのだろう?でも、人の命を助けるといういいことをしたから、お母さんは許してくれると思う。そう信じたい、というように聞こえました。
4. ジョバンニとカンパネルラの幸せの終点
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僕達は素粒子でできている
カンパネルラ『理科の先生に習ったよね。今から150億年もの昔、空に何もないときにビッグバンが起こって何もかもが生まれたの。
だからこの宇宙にあるものは、もともとはみんな一つなんだよ。
僕もあの星も大爆発のかけらなんだって!
みんな一つなんだよ。』
ジョバンニ「習ったよ?」
『科学の先生に習ったよね。
僕たちは水が酸素と水素からできていることを知っている。
実験してみたら本当にそうだったんだから、誰も疑いやしない。
けれども昔は水銀と塩でできているとか硫黄でできているとか色々議論したんだ。
皆めいめい自分の神様が本当の神様だって言うだろう。
けれども、自分と違う神様を信じる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう?
僕たちの心が良いとか悪いとか議論するだろう。
そして勝負はつかないだろう。
いろんな人がいろんなことを言っている。
哲学で考える人もいれば、数学で考える人もいる。
でもみんな同じことを言っているんだ。
僕達はもともと一つだからね。
一番進んだ哲学はね、今自分がここにいることを説明するのが難しいと言っている。
素粒子は自由自在だから捕まえられないんだって!
僕たちは素粒子でできている。
僕たちもまた自由自在なんだ。』
すごい深い台詞ですよね。人種も、信仰する神様も、哲学も、それどころか生死さえ超越したその先の台詞。すべての人や物、思想を受け止めた上の重い台詞。真っ直ぐな瞳、自分の言葉として心を乗せてありのまま喋る大晴はまさにカンパネルラとして生きていました。
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私が思うジョバンニとカンパネルラの関係
車掌「この切符は使えません!3次空間のものですから!」
ジョバンニ「どこまでもいけるって言ったじゃないか!?」
車掌「その通りです!しかしこの切符はまだ使えないんです!」
ジョバンニ「でもカンパネルラが!」
車掌「この人は今夜、遠いところへ行くんです!君はその切符で本当の世界の火や激しい波の中を大股でまっすぐ歩いていかなければいけないよ。たった一つしか持っていないその切符を無くしちゃいけないよ。」
ジョバンニ「カンパネルラ、いつまでも一緒に行くんだよね!?」
カンパネルラ『ジョバンニ、一緒に行けない。でも、僕たちはビッグバンでできたんだから、みんながカンパネルラだ。君の出会うすべての人がカンパネルラだよ。』
車掌の台詞も刺さりました。「君はその切符で本当の世界の火や激しい波の中を大股でまっすぐ歩いていかなければいけないよ。」お話が進む中、ずっとジョバンニが周りに惑わされながら生きてるように見えました。周りからの言葉やレッテルの影響から、より根暗でネガティブで卑屈になっていくようでした。そのしがらみから解き放ってくれるような言葉のように思いましたが、やはりジョバンニはカンパネルラとの関わりで心を保っていて、カンパネルラと一緒でないことに大きな不安を感じているような気がしました。きっと、ジョバンニにとってカンパネルラは道を灯す光でもあったのでは?と思います。
しかしここでカンパネルラが『ジョバンニ、一緒に行けない。でも、僕たちはビッグバンでできたんだから、みんながカンパネルラだ。君の出会うすべての人がカンパネルラだよ。』とジョバンニに告げます。シンプルにさっきカンパネルラ話していたように、みんなビッグバンで生まれたかけらだから、みんな一つ、みんな一緒という意味もあると思います。ただ、それだけじゃなく、今ジョバンニの周りにいる人もこれから出会う人も、もしかするとジョバンニにとってのカンパネルラになるかもしれない、カンパネラのように支えとなってくれるかもしれないという意味合い、カンパネルラの生死をも超越した思想も感じました。今のジョバンニとってカンパネルラからの言葉ほど重いものはないと思います。
長い旅を経てこのあとジョバンニは三次空間へかえり、カンパネルラは第四次の汽車に乗っていってしまいます。三次元、四次元からきているのかな。ジョバンニも三次空間へかえってきて現実を知り、それを悟らざるを得なくなるんですよね。
5. ジョバンニとカンパネルラの "共に生きる"
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先生の台詞の違和感と自己犠牲
「カンパネルラさんは残念なことをしました。悲しまず一生懸命やりましょうね。」
この台詞はじめ気持ち悪くて仕方なかったです。カンパネルラの命を失うという惜しいことをした?などと色々考えたのですが、何度聞き返してもカンパネルラが行ったその "行動" が残念だったというように聞こえました。これ、自己犠牲に対する考えの違い?それぞれの幸せとは何か?というところの違いなのでしょうか…。考えは十人十色で、カンパネルラ自身もお母さんがどう思うか心配していたように、自己犠牲を "幸せ" とする人や、そうでないとする人がいるということの表現なのでしょうか?そもそもザネリの命は助かりましたが、カンパネルラの命は失っていますし、先生という立場では思想どうこうより自己犠牲を正義、幸せとはできませんよね。そもそも自己犠牲=正義は怖いですよね。人のために、国のために、そういってたくさんの命が失われた過去がありますし。行き過ぎた "人のため" 、更にそれが暗黙の了解になる世界ほど怖いものはないですよね。自己犠牲についてたくさん描かれてる中、この先生の台詞はとても大切な台詞だったのかもしれません。
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生きているジョバンニと死んでしまったカンパネルラの "共に生きる" ということ
ジョバンニ「カンパネルラ僕たちはしっかりやろうね。たった1枚しかないこの切符を無くさないように大股で歩いていかなくちゃ。」
この宇宙のものはもともと一つで、みんなはビッグバンのかけらでしかない。うまく説明ができないのですが、きっと生きているとか生きていないとかではない、その先の台詞なんですよね。この台詞真っ直ぐしっかりジョバンニが言うんですよね。周りの言葉やレッテルなどに惑わされて、環境に翻弄されて心が溺死していたジョバンニが生還し、自分の意志を持ってはっきりと話す瞬間に思えました。
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星めぐりの歌の変化
僕たちはまだ見ぬ場所へ
呼ばれてる 呼ばれてる
散りばめた 銀河の向こう
呼んでいる 呼んでいる
この暗闇に吸い込まれそう
汽笛が夜風についてくる
もう足元は地上を離れて
星をぬうように走り出したんだ
誰も見ていない世界があるよ
ガタンゴトンガタンゴトン
ガタンゴトンガタンゴトン
太陽が眠っているよ
今のうち 今のうち
僕たちは知らない場所へ
踏み出せる 踏み出せる
この天の川に飲み込まれ
光の速さについていく
もう足元は地上を離れて
風をぬうように走り出したんだ
君と見てみたい世界があるよ
(耳コピのため、間違っていたら申し訳ないです。)
星めぐりの歌、歌詞が増えているだけでなく前半で歌っていたときと同じと思われる箇所でも少し歌詞に変化がありました。
「汽車が夜風に吹いてくる」
→汽笛が夜風についてくる
「もう足元は地球を離れて」
→もう足元は地上を離れて
「走り出した歌」
→走り出したんだ
実際にカンパネルラと共に汽車に乗って銀河を旅したからこそ、実体験が伴ってこういう歌詞になったのでしょうか。それと共に、カンパネルラは日記を持ったまま溺れたのか、銀河鉄道乗車以降、交換日記はボロボロですよね。恐らく濡れてそのまま乾いた状態でボロボロになっているのかと思うのですが、もしかして交換日記の文字が滲んで読みづらくなっていたのでは?と考えました。きっと二人で考えた歌詞を一言一句覚えておくことは難しいので、思い出しながら滲む文字を読む中で実体験とリンクしてジョバンニは意図せず歌詞を変えて歌ってしまっているのでしょうか。だとすればものすごく悲しい事実ですよね。
「君と見ていたい世界があるよ」
→君と見てみたい世界があるよ
これも上記と同様だと勝手に解釈してますが、それプラス見ていたい、見てみたいの違いに生きる世界の違いを感じざるを得ませんでした。
同じ世界で生きていた頃は隣に並んで見てみたい世界をいっているように思いますが、それぞれが存在する世界が別となったいま、やはりこれまで通りではないですよね。それでも君と見てみたい世界があるという、ジョバンニなりの現実を受け入れた上での願望を感じました。
この歌をうたう立ち姿素敵でしたね。みんなとってもいい顔をしてました。何より小道具を置いたはずの正門良規の立ち姿はジョバンニで、福本大晴の立ち姿はカンパネルラでした。役を、物語を生きただけでなく、二人の心の中にもそれぞれジョバンニとカンパネルラが生きているってことですよね。
6. さいごに
最初はシンプルにあの衣装と笑いとともにテンポよく進む銀河の話にはてなが飛びまくりましたが、見れば見るほど深みのある舞台でした。今この劇団と役に出会えたことに感謝していた正門さんでしたが、私自身Aぇを通して劇団鹿殺しさんに出会えて、この銀河鉄道の夜に出会えて本当に良かったです。銀河鉄道の夜のストーリーは知っていましたが本当に表面的にしか知らなかったので、きちんと考えるいい機会でした。もう一回原作読みたいと思います。また読み返したら今の感想もがらっと変わっていくかもしれないけれど、今ある情報と今の自分の思想で感じたこの感想は忘れないでいたいなと思います。
人生を乗せて命を燃やしながら物語を生きるAぇ、めちゃくちゃかっこよかったし、めちゃくちゃいきいきしてたなあ。瞳が真っ直ぐ生きてた。
きっとこの舞台は私の人生でも今後行き詰まったときに思い返す大事な舞台になりそう。生きる上で大切にしていきたい言葉がたくさんありました。ありがとう。
僕たちは素粒子でできている。僕たちもまた自由自在なんだ。
そして!!ちょっとこれカットされてんのも、無観客をテレビで細切れ放送ももったいなさすぎるんで、いつか改めて生でしてもらってもよろしいですか!?!!
でも、こんなご時世、できる形を考えて発信してくださるグレショーさんに大感謝!!グレショーなければ出会ってない!これからもAぇ! groupをよろしくお願いいたします!!!(誰?)